
代官屋敷の表門をくぐると、そこには樹齢200年を超えるタブノキが静かに出迎えてくれます。
その大きさに圧倒されつつも、どこかホッとするような存在感。
周囲にはケヤキなど、四季折々の美しい植栽が広がり、訪れるたびに違う表情を見せてくれるんです。
この大場家の屋敷は、かつては世田谷4丁目、区役所第2庁舎のあたりにあったそうです。
天正の初め頃、大場家初代の信久とその子・房勝が今の場所に移したと言われています。
現在建っている建物は7代目の盛政が元文2年に建て直したもので、当時の面影を今でも感じることができます。
代官の仕事で最も重要だったのは、年貢の徴収ですが、領内の管理や治安維持もまた大切な役割でした。
屋敷内には、捕縛のための三ツ道具や裁判が行われた白州が残っていて、当時の様子を感じることができます。
白州は少し北東にずれていたようですが、敷き詰められた玉砂利は当時のままです。
江戸時代の中頃から明治維新まで、世田谷代官を代々務めていたのが大場家。
彼らは「石橋山の戦い」で有名な大庭景親の子孫とされ、室町時代には世田谷吉良氏に仕えていました。
大場家の始祖とされる大場越後守信は、吉良氏の四天王随一と称される武将でしたが、豊臣秀吉の小田原征伐で主君が滅びた後、仏門に入り、帰農したと言われています。
しかし、徳川幕府が成立しても、大場家は世田谷の郷士として強い影響力を持ち続けました。
寛永10年、世田谷15カ村(後に20カ村)が彦根藩主・井伊直孝に賜られた際、3代目の盛長がわずか15歳で代官に任ぜられましたが、20歳で早世。
その後、代官職は弟系統の市之丞吉隆が務め、大場家は世田谷村の名主として続いていきます。
ただ、元文4年に7代目代官の市之丞が年貢未進の責任を問われ、屋敷没収の上、追放されるという波乱もありました。
そんな中で、盛政が代官に抜擢され、以降、大場家がその職を全うすることになります。
寛政6年に代官となった弥十郎景運は、農村の経済改革や経費の削減に尽力し、その功績が認められて歩行(かち)に取り立てられました。
その後、代々歩行の家柄として続き、現在の当主・倍参氏は16代目にあたるそうです。
長い歴史が、今もこの場所に息づいています。
いつ訪れても人が少なく、ゆったりとした時間を過ごすことができます。
日本庭園を眺めながら、心を落ち着けるにはぴったりの場所です。周辺の街並みも落ち着いていて、都会にいながら郊外のような穏やかな雰囲気が漂う民家が広がっており、心がほっとする瞬間が味わえます。
「東京の歴史読む見る歩く」こちらにも、この土地の周辺の歴史が詳しく書いてあります。
海に臨む品川・大森・羽田。江戸以来の大都市近郊行楽地・目黒。世田谷から大田へと、古墳や遺跡が連なる多摩川中下流域。早くベッドタウンが広がり、空港・リニア新幹線などと、変貌続ける23区の南部をみつめます。